コンテンツの創造とカルピスの原液

コンテンツを創るのって言って見ればカルピスの原理に似ている。

もう少し正確にいえば、コンテンツを創造するということはカルピスの原液をつくるということである。

コンテンツは人にわたった時点である程度薄まる。

コンテンツをつくった人からなにからの手段で、たとえば言葉やマニュアル化したもので受け取るわけだから、それはしかたがない。

言って見れば、水でうすまるようなイメージである。

だから、コンテンツがしっかりとしたカルピスの原液であるならば、そこに水を加えたとしてもおいしいジュースとして受け取れる。

しかしだ。

たとえば、それを受け取った人がまた違う人にそのコンテンツを渡そうとするとどういうことが起きるだろうか。

その人がもっているのは、カルピスの原液ではない。

カルピスの原液を水で薄めたカルピスウォーターである。

つまり、そこから人に伝えれば、そこでまた水で薄められてしまう。

だから、コンテンツをしっかりと人に渡すときには、基本的には質のいいもの。

原液であり、それは濃いものでなければ人に伝えたとていも意味をなさなくなってしまう。

ちょっと、簡単な例をあげてみよう。

最近、ネットなどでよくある転売で設けてみようという話を考えてみてほしい。

Aという商品がすごい売れるということがわかっていて、それを人に伝えようとする。最初の内は儲かるかもしれない。しかし参入者が増えれば増えるほどに、それは水で薄まるかのごとく、そのAという商品価値もどんどんと薄まっていく。

AだけでなくBという商品が売れるということでその問題は一時的に解決されるかもしれないが、時間がたてばまた同じようなことは容易に想像できるであろう。

であるならば、自らCやDやEという商品を見つけられるスキルがあった方が、コンテンツ的にはより良く、より濃いものになっていける。

いや、見つけるのではなく、それを創り出せるとしたらもっといいだろう。

このように、結局コンテンツっていうのはその密度が非常に大切であるということがわかるだろう。

このコンテンツがどうしたら売れるかということを考えることも重要ではあるのだが、そもそもこのコンテンツが多くの人に伝わり、水でうすまったとしてもしっかりとしたおいしいカルピスとして飲めるものなのか?

そこを追求していくことが非常に重要なのである。

だからこそコンテンツとはカルピスの原液なのだ。