自由には責任が伴うは時代遅れ

自由には責任が伴う、だから、その責任を担う覚悟がある人にだけ自由になる権利があるということだろう。

確かにこれは正しい。

どの角度から反論しようと思ったとしても、論破することはできないだろう。

ただ、この考え方には決定的に良くない点がある。

それは、
自由=求めるもの
責任=敬遠されるもの

というイメージが行間を通して、伝わってくるからだ。

もしかしたら、自由というのは良い面ばかりではないかもしれないし、責任を持つことができれば、身が引き締まる、自分自身を成長させてくれるといったポジティブな側面も当然隠されているからだ。

親には子供を育てる責任がある、俳優が舞台を成功させる責任を担う、会社の社長がその会社の役割を全うする責任を担うというのは決して楽なものではないが、そこにはやりがいや生き甲斐、本当の意味で求める人生の快楽的なようなものが隠されているといっても過言ではないはずだ。

また自由についても従来の捉え方には偏りがありすぎる。
自由というのはそもそも、何でもできるというようなニュアンスもあるが、自分の意志で選ぶという側面もある。そして、この自由意志の方にこそ、人間が人間たるゆえんが隠されているとも思っている。

自由と責任の意味をはき違えてしまうと、自由を求め、責任を敬遠するという図式はなりたつのだが、しっかりとその意味を吟味してみることにより、自由は自由でいいけど、責任は責任でこれまたいいんじゃないのかい、と思えるようにもなってくる。

さて。ここからが本題。

このように、従来言われ続けてきた
自由には責任が伴う

この言葉を疑って考えてみなくてはいけない。

そして、本来も止めるべきなのは自由ではなく、責任なのではないかということが浮き彫りになってくる。

遊びにしても、仕事にしても、人間関係にしても、結局いろいろなところに様々な責任は発生していくる。
そして、それは決してネガティブな敬遠されがちな責任ではなく、ポジティブな人々があえてでも求めるような責任である。

そして、その数ある責任の中から、ではあなたはどの責任を担いたいのか?

と考えたときに、初めて自由意志とつながる。

そう、あなたの自由な意志で責任を選んでいくのである。

私は、この人と付き合っていきたい、だれかと付き合うというのはその人間関係の責任を担うということ。

私は、この仕事していきたい、仕事をするというのはその責任を担うということ。

そんな感じで、なにをやりたいというより、どの責任を担いたいのか。

どの責任を自由な意思で選んでいくか。

これが新しい時代においての自由と責任のあり方であると思っている。

自由には責任が伴う

のではなく

欲しい責任を自由な意志で選んでいく

これが達成したときに、自由と責任は切り離されたものではなく一体のものとなる。

もはや敬遠される気持ちはなくなり、そこにはやりたいという気持ちと一種の覚悟が一体されていくのだと思う。

そう、我々がこの世に生きる意味はどの責任を担っていくのか、それを自由な意思で選択し続けていくことにあると思う。