なにもないということの利点

なにもないという人には実は利点がある。

中途半端になにかある人には逆に欠点しかない。
なにもないという人には、なにかあるということのその尊さが痛いくらいに理解できるからだ。
ゼロでしか見えない、わからない景色というものがあるのです。
私自身もそれを実感しているのだが、
こういうブログやYou tubeなどの動画コンテンツ
一対一でない一対多数になってしまう場合、
どうしても一対一マインドというものが消えてしまう。
そして、そのマインドがなければそのコンテンツは力を持たない。
コンテンツは自分の活動は常にたったひとりのためにやるという姿勢が本当に存在して
はじめて力を持つ。
一対一マインドで行うための姿勢は
たとえそれが本当にたった一人のためだったとしても
やると思えたとき、そして実際にそうするのであれば
それが一対一マインドで行ったといるだろう。
だから、この記事もある意味で誰か一人のために書いている。
このマインドはなにかある人には持つことが非常に困難なマインドだ。
しかし、あなたがもしもなにもないということであれば、
そのマインドを持てるかもしれない。
先ほども言った通り、なにもない0であるからこそ1の尊さを知られるからだ。
そして、一対一マインドここがあるからこそ
コンテンツはコンテンツとしての役割を果たせるのだ。
ここで、ちょっと違った角度からこのことを確認してみたい。
トロッコ問題というものを知っているだろうか。
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トロッコ問題:以下wikipediaより抜粋
「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。
■例
線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
 この時たまたまA氏(とある人)は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
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この問題に絶対的な正解はない。※一応、「なにもしない」というのが正解ではるのだが。
人それぞれによっての価値観によって正解は変わっていくだろう。
要は人の命は1人だろうが5人だろうが計ることはできない。
そういう数の論理を超えた問題というのがこの世の中には存在しているということを明記しているのだと思う。
このトロッコ問題は、ネガティブな側面を否めないが、こういった数の論理超えた問題というのはポジティブなところにもいえる。
最初の話とつなげることでなにがいいたいかというと、
あなたが、誰か1人に対して良い影響を与えるのか
それとも5人の人に影響を与えるのかでは
どちらがいいということではない、本質的にないということ。
つまり、どちらの事例も同等に尊いことなのだということが考えられるということだ。
であるならば、はなから大多数の人を意識してなにかを発信する必要ことなんていい。
そうではなく、一対一このマインドでたった一人を変えていけば、それを貫いていけばいいのだ。