遊びとは能動性の極み

遊びというのは非常に特殊な領域にあるものである。
なぜならば、遊びというのはその本人に遊んでいるという自覚がないと遊びとはいえない。
仮にゲームをやっている人がいるとしよう。
もちろん、その人がそれをやりたくてやっているのであれば、それは遊びとして成立する。
しかし、ゲームなんて大嫌いだという人がゲームをやらされているとしたら、それは遊びにはならない。
苦痛な作業となるだろう。
でも、それなら他の作業にもいえるのでは?と思うかもしれないがそうではない。
例えば、勉強や労働であれば、
その人がやりたくなくて、強制的にやらせたとしても
それは、勉強としてなりたつし、労働としても成り立っていく。
つまり、勉強や労働は本人の意志とは関係なく成立するものである。
しかし、遊びは違う。
その本人が楽しくなければ、遊んでいるんだと感じなければ遊びだと成立しないのである。
遊びがなりたつ条件とは、その人が能動的であるかどうかといえる。
その人が能動的にやっているのであれば、それはどんなことであれ、遊びだと定義づけることができるだろう。
よく、仕事現場で、
能動的に取り組みなさいといっている人がいるが
あの発言は矛盾している。
能動的に取り組みなさいで取り組んだら、それは受動的でしょうと。
そんなことを言われなくても能動的に取り組むことが本来の能動性であるのです。
能動的である人というのは特徴というのは必ず遊びを極めている人に違いない。